おこめのねどこ

こめが寝る前や起きた後のちょっとした時間に書く記録や意見や日記です。

教員は社会に出ていないから常識を知らない、についての現時点での考え

先ほどとあるYouTube動画を見ていて、コメント欄で話題になっていたのがタイトルのこと。私はここでいう「教員」ではないが、関係する仕事をしているし、その関係で学校の先生方とお話しする機会も少なくないので思うところはある。

タイトルのような言説には、確かに一定の説得力があるのも分かる。「学校」の後に「社会」があるという印象であれば、ずっと学校にいる先生は社会に出ていないことになるため、社会に出ていれば分かるはずの「常識」を知らない、という理屈だ。雰囲気的には理由づけとして問題ない気がする。

一方で、客観的に考えたときに、つまり、自分が知っている素敵な先生方を思い浮かべずに考えたときでさえ、いくつかの疑問が生じる。

 

①学校は社会に出ていく前の段階として用意されているものだが、なぜそこで常識が獲得できないのか?

▶︎タイトルのような前提にたてば指導しているのは「常識のない教員」なので、仕方がないのだろうか。一方で、現行法制上、内容を決めているのは学習指導要領なので、責任は文部科学省にある事になる。学習指導要領で定めた教育内容を覆すほどの何かが学校にはあり、そのことが児童生徒が「常識」を獲得することを拒んでいるのだろうか。学校を卒業した人の誰もが「常識」を獲得できていないのだろうか。あるいは「教員になりたい」と思った瞬間に、学校で学んだ「常識」を忘れるのだろうか。

 

②「社会」に出ると、必ず常識を獲得することができるのだろうか?

▶︎これについてはあまり語ることがない。どこにいても常識的な人とそうでない人はいることは自明だ。社会に出ることが常識の獲得を保障するものではない。非常識な社会人などいくらでもいる。

▶︎だとすると、「社会に出てから教員になった人は良い人が多い」という言説(これもネット上のコメントで多かった)の中で語られていた素敵な先生たちが獲得したのは、必ずしも「常識」ではないし、「社会」に出れば必ず獲得できる類の能力ではないのではないか。ではどのような力を社会で獲得していたのか?

 

③良い教員になるのに必要な、「社会」で獲得できる力量とは何か?そもそもここでいう「社会」とは何か?

▶︎おそらく一般にイメージされる「社会」は「一般企業」なのではなかろうか。あるいは「商売」であろうか。もしそうであれば、経験できるのは「顧客に対応すること」なのだろうか。接客できるかどうかなのか。あるいは上司にこき使われ、理不尽な思いをすることだろうか。⇦最後のこれは、コメントで書いている人がいた。ただ、果たして今の教員の労働環境は、「理不尽ではない」と言えるだろうか…。

▶︎これが市役所のような公務員だったらどうか。これもあまり「顧客」を意識しない職業だと思うが。警察や消防署だとどうだろうか。自衛隊は?

▶︎画家や小説家、漫画家、演奏家などの芸術家だとどうだろうか。顧客を意識する人もいれば、気にしない人もいそうだ。

▶︎アルバイトはどうだろうか。教職課程の学生も多くは(というか、大学生の多くが)アルバイトをしているし、何なら塾のアルバイトでかなり理不尽な目にあっていることも聞くが、これはどうなのだろうか。

▶︎大学教員も、社会に出ていないことになる。…まあ、非常識な人は多いのかもしれない。

 

④前項と重なるが、一度社会に出て教員になった人が良い教員になるのが本当だとしたら、その理由は何か?

▶︎印象的には、そういう印象はあるが、一般企業を辞めて教師になる人はそれなりの情熱があるのでは、と予想している。その情熱に「社会経験」が上乗せされるのではないだろうか。そもそも、何年「社会」に出たら、期待される能力が獲得できるのだろう。数ヶ月の研修で良いなら、介護等体験の代わりに一般企業に行けばよい。そもそも、学生時代にインターンシップを体験している先生もたくさんいそうだが。

▶︎古い記事だが、社会に出ただけで「良い教員(校長)」になるわけではないことは、過去の大阪の事例からも分かる。もちろん、良い先生もいただろう。社会に出ていたかどうかより、社会でどのような力量を獲得して、それが学校現場でも生かされたのかが着目されるべきだろう。

民間人校長の不祥事はなぜ起き続けるのか 今度は高校校長がスーパーで万引き事件: J-CAST ニュース【全文表示】

 

⑤そもそも、教員は本当に常識を知らず、「良くない人」が多いのだろうか

▶︎不味い料理、つまらない映画や小説やマンガ、嫌な人など、ネガティブなものは記憶に残りやすい。それを避けたいと思うからなのだろうか。それが公教育を受けた人の分だけ集まれば、やはり「教員は悪い」という印象の方が勝るのではないだろうか。ただ、良い先生も、普通の先生もたくさんいたのではないか?ほとんどがダメな先生で、本当に日本の公教育制度が保てるのか?PISAの学力調査で高い順位を保てるだろうか?

▶︎加えて、まだ発達途上の児童生徒であれば、先生の意図が理解できず、誤解している場合も多いのではないだろうか。「悪い」という印象だけが残ってはいないだろうか。昔の印象のまま「教員などおかしな奴らばかりだ」と言って大人になった人たちは、素晴らしい大人なのであろうか。

▶︎とはいえ、もちろん不適切な教員も一定数いるだろう。それは「社会」でも同じだろう。ただ、未成熟な児童生徒に対する教員であるから、教員自身も常に研究と修養に努め、成長しなければならないことは確かなことであるし(法的に規定されてもいる)、悪いと思ったら生徒の前でも反省するのが見本となる大人の務めだろうと思う。まあ、それも「社会」でも同じなのだろうけれど。

 

理屈で考えれば、タイトルのような言説が正しいわけはないと思うのだが、そういうことを言われることも含めて教師の大変さだし、そんな中で児童生徒に感謝されるからこそやりがいになるのかもしれない。

頑張っている先生たちをもっと応援する方法はないだろうか。