おこめのねどこ

こめが寝る前や起きた後のちょっとした時間に書く記録や意見や日記です。

長びく風邪

30歳を過ぎてから、風邪が長引かない、ということがなくなった。

免疫力の低下なのか、体力の低下なのかわからないが、なかなか治らない。

 

ただ、Apple watchやOuraringを使うようになってから、睡眠時間やその質などが分かるようになって、少し納得できた。

風邪をひいている間は、睡眠の質が下がるのだ。

鼻づまりや咳などで、確保しているはずの睡眠時間ほど寝られていないのだろう。

 

いつも以上に睡眠時間=布団に入って何もせず目をつぶっている状態を確保しないといけないし、薬で各種症状を抑えないといけないのだろう。若い時はもう少し体力があって寝られたのだろうな。

 

もちろん、普段の運動やそれこそ睡眠などによって、免疫力を高めておいて、そもそも風邪をひかない、あるいは風邪をひいても直せるだけの体力をつけておく、という改善はできるはずだ。

 

焦らずに体質改善をしていこう。3週間ほど前から「3か月チャレンジ」と称して、間食をやめたり運動習慣をつけようとしたりしている。期待していたほど体重は減らないが、少しずつ日々の気分は良くなっている気がする。とにかく続けてみよう。

観たい映画

目標は常に見えるところに書いておくべし、と、よく見ているYouTuberが言っていたため、しっかり影響されて書いておくことにした。一日のうち、一番よく見るのはやはりiPhoneiPadなので、ホーム画面に表示できるアプリを調べ、そこに書いておくことにした。

 

もちろん、仕事や勉強、健康の目標が一番それっぽいので書くのだが、せっかくなので映画や小説についても月1回くらい観たり読んだりする目標を立てた。すでに今年は2か月が過ぎているけれど、映画についてはとりあえず残りの10か月で12本観る目標にする。

で、何を観るかが問題になった。劇場に観に行くのは今の生活ではちょっとハードルが高いため、amazonプライムとかで観られるものにする。いつも目移りするので、決めておかないと観たことのある映画を選んでしまう。とはいえ考えても分からないので、これまで観た映画で記憶に残っているものをメモして自分の好みの傾向を探ることにした。

 

さらに、その作品の監督を調べ、その監督の別の作品をWikipedia等で探してみた。また、単純に観てみたいと思っていた作品もピックアップして、監督を調べてみた。すると、観たいと思っていた作品の監督と、これまでに面白かった作品の監督が割と重なることが分かった。小説は同じ著者の作品を読むことが結構あるが、映画についてはそういうことをしたことがなかった。

岡田斗司夫氏が、観るアニメについて「好きな声優が出演している作品を観る人がいるが、それよりも好きな監督で観た方が良い」と言っていたので、実写映画も同じかなと思ってやってみたことだったが、確かに良かったと思う。監督を調べると、映画というよりドラマが得意なのかなとか、演出家が本業なのだなとか、そういうこともよくわかる。

 

それにしても、ピックアップしたのは邦画ばかりだった。洋画は観るとしてもアクションとかで、「観たい映画」に入れるのはなんだか違うと思ってしまう。どこかで日本の映画の方が味があってよく、海外の映画はそうではないと思い込んでいるところが自分にある。そうではないことは分かっているのだが。意外と時間がかかったので、また時間をとって洋画も、あとはアニメもやってみようと思う。

 

ちなみにピックアップした監督は、今のところ以下の通り。

井筒和幸,上田慎一郎,内田けんじ,大森立嗣,荻上直子,沖田修一,河合勇人,是枝裕和,黒澤明,佐藤信介,周防正行,鈴木雅之,園子温,中島哲也,中田秀夫,中村義洋,西谷弘,蜷川実花,蜷川幸雄,樋口真嗣,福澤克雄,前田哲,三谷幸喜,本木克英,本広克行,李相日

作品を並べてみると、コメディ好きか、社会派なのか、歴史ものが好きなのか、マンガ等の実写化が多いのか、そういうことも分かって面白い。

 

最初に観るのは『七つの会議』かなぁ。小説面白かったし。観たらブログで感想を書こうと思う。

風景の記憶について

持ち回りのエッセイの仕事があり、前の職場のことを少し書いた。

あまり長くてもよくないと思って1,000字程度にまとめたが、どうしても書きたくて書いたのが、前の職場を出発する日に見た風景のことだった。

 

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宗谷岬

元同僚がSNS宗谷岬を自身にとってのパワースポットだと書いていたのを読んだことがある。分かる気がする。

 

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利尻富士

 

写真はいずれも前の職場を発つ日のもの。3月の北海道としては珍しく道路の雪はすっかり解け、初めての雪道の長距離ドライブは非常に快適なものとなった。名残い惜しくて、あちこちで写真を撮ってはFacebookにアップしたが、かなり鬱陶しかったのではないかと思う。にもかかわらず、幾人かの方がコメント等を残して下さって嬉しかった。

 

在職中も機会を見つけて写真を撮ったが、多くが風景の写真だった。もちろん記憶にもよく残っている。仕事を終えて職場を出ると、特に季節の良い時期は眼前に広がる景色に大いに励まされた。すがすがしい青空だったこともあるし、煌びやかな夕焼けだったこともある。雪の時期も長いが、それはそれで「なにくそ」と気合を入れなおす気持ちにもさせた。

 

現在もPCのデスクトップ画像は利尻富士のままで、変更する予定はない。疲れたなぁとかしんどいなぁとか、新しい職場に来たのにコロナのせいであまりなじめていないなぁと少し寂しい思いをするたびに、何となくこの景色を思い出しているような気がする。

自然に触れること、何なら写真やフェイクグリーンでもいいから接することによってストレスが軽減されるという研究結果があるようだ。

もしかしたら思い出すのもそういうことなのかもしれないが、それはそれとして、フッと思い出して何となく励まされるということが、考えてみると何度もあったのだと思う。エッセイを書きながら気づいた。

 

スマホとの距離感

今朝、朝日新聞の「どう思いますか ガラケーと人生[下]」を興味深く読んだ。
新聞読者の投書欄である。

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自分とさほど世代が変わらない人も、ガラケーを使い続けている。
携帯会社の「スマホへの変更圧力」に怒りを隠せない人もいるし、
学校からスマホアプリへくる連絡を転送してくれる保護者友達に感謝する人もいる。
変えるのがもったいない、用途として十分だ、というのが変えない理由のようだ。

 

私がガラケーを手放したのはもう15〜6年前になる。
当時は嬉しくて、どう使おうかあれこれ調べて楽しかった。
しかし、スマホを持っていることが当たり前になり、
またアプリや各種コンテンツが豊富になったことで、
スマホに取られる時間の方が気になるようになってきた。

 

下記の『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著)を読んで、
子どもを持つ親としても、教育者の端くれとしても思うところがあった。
最近は、まず自分からスマホを遠ざけようとしている。

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

 

スマホ自体は役に立つもので、手放すことはしない。
手放せないけど少し距離を置く、というのは不思議な関係だと思う。
考えてみると、ガラケーくらいの機能を持っているものがちょうど良かったかも。
ガラケーを続けていれば、スマホとの距離感に悩むことはなかったのかな。
代わりに、携帯会社からの近距離の圧力を感じていたかもしれないけど。

今苦しいこと

今苦しいことの多くの理由は、「若気の至り」で説明できるのではないか。

という結論に、パートナーと話していて達したのだけれど、文字にしたら別にそうでもないかな。どうかな。

 

なぜ今の仕事を選んでしまったのか、仕事内容が苦しい、という話をしていてのこと。

ただまあ、選んだ仕事をできているという意味でもあるので恵まれている方だな。自分で選んだんだから文句を言うな、嫌ならやめろ、とは思わないけど。

今より若い時の自分がその仕事を選んだのだから、「若気の至り」と理由付けることは、苦しさを紛らわしてはくれないけれど、じゃあまあ仕方ないか。若気の至りだしな、とは思えたかもしれない。

教員の多忙について現在思うこと

下記の記事を読んでの感想。リンク先は後編だが、前編の内容も含む。

「私、子どもを保育園に12時間以上預けている…」なぜ教育業界の“ブラック化”は止まらないのか | 文春オンライン

 

学校における働き方については多数の文献、論文、記事がある。Twitterなどでも日々苦境が伝えられている。様々な運動も行われている。だから私のこの記事も、その中の、特に目立たないものの一つである。端的に言えば自分のメモである。

 

私が注目したいのは、やはり「働き方改革」という言い方である。労働時間や賃金の問題であるから、きっと「労働問題」等と表現した方が適切なのだろうと思う。「働き方」というのは働き手(労働者)が主語になる言葉であって、全体のシステムや体制に問題のある現在の問題をきちんと言い表していないと感じる。記事で言えば、後編に登場する女性が正規の教員を辞して非常勤になったことが、個人の「働き方改革」なのだろう。もう少し俯瞰的な視点から見れば、学校の労働問題が解決しないために、熱心で経験もある教員が一人減ってしまった、ということになる。現在どうにかしなければいけないのは本来ここなのだろうと思う。

 

これを外してしまうと、その後の解決方法も歪んでいってしまうと感じる。例えば、部活指導である。私の経験では、中高のどちらも部活指導が熱心でない学校だったため、別に生徒主体でもやりたいことはやれると思っているが、部活動を通して生徒指導をしたいという先生は決して少なくない。しかし現在の「働き方改革」では、部活動を外部講師にお願いするという提案がなされている。部活動をしたい先生からしたら、改革した結果、やりたいことをやれなくなるということになる。やりがいを奪われた先生はどうなるのだろう。この提案は、中央教育審議会答申からのものである。当然、現場の声に耳を傾けながら作っているはずで、この方向を良いと感じる先生方も多いはずだ。しかし結果的に、先生たちを「どう働かせるか」という考え方になっているために、現場には必ずしも受け入れられないのではないかと感じる。

 

そのように考えた場合、結論的には、現場の先生方の選択肢が増えるような改革が重要だと思う。部活指導をしたい先生の時間が確保され、したくない先生の自由も確保されること。また家庭の事情が考慮され、時短勤務やオンライン会議などの柔軟な働き方が保証されること。校務分掌が偏らず、また負担をかけすぎず、教材研究など本来の中心的な業務に集中できること、等。となると、現場のより一層の工夫は必要だとしても、どうしても財政支出しかないじゃないかと思う。先生を増やす、そのことで先生たちの負担が軽くなり、これまでのブラックな働き方は求められなくなる。そうして教員志望者が回復してくる、という流れにならないものだろうか。

 

予算は消費税増税で確保できていないのだろうかなぁ。今はここまで。

集団の動きに対する興味について

仕事との関連もあるのだろうけれど、自分が集団の動きに対して興味があることに改めて気づくことがある。

久しぶりにこのブログを開いたら、『華氏119』の感想が最後の更新だったことに「ほほう」と思い、つい先週アメリカの大統領が変わったこととの偶然(というほどでもない)の一致に少しニヤッとした。結局アメリカのことについては分からないことも多いのだが、興味は確実に増しつつある。それは冒頭のことと関連している。

【米大統領選2020】 連邦議会、結果認定の審議 トランプ氏支持者たちが議事堂侵入 - BBCニュース

2021年1月6日に、上記の事件が起こった。トランプ氏自身は否定しているが、トランプ氏の言葉によって議事堂前に支持者が集まり、またその一部が議事堂に侵入したという流れのようである。事実や経緯についてはここでは問題にしない。私の興味は、人が集団になったときには強力なエネルギーになるという点である。

 

これはとても当たり前のことで、歴史が証明しているし、現代でも政治に関する抗議活動・デモ行進などは一定程度の影響力を持つと考えてよいだろう。オンラインでの活動も増えており、集団的な意思表示は以前よりも盛んなのかもしれない。

そんなわけで、特に1960年代の大学生たちの学生運動については興味を持っていたわけである。暴力的な運動だけではなく、大学に対して学生団体がきちんと話し合いを通じて理解を求めた「東大確認書」などの事例があることを知ったのはもっと後だったけれど。一部の権力がその時代の中心となることはあるけれど、やはり多くの人が「おかしい」「いやだ」と思うことが、体制的な変化につながるのだよな~。そうなると、その時にどういう雰囲気になっているのか、集団の何がどういうふうに作用して変化につながるのか、ということが、面白そうなテーマになってくるな。

 

学生運動との興味の関りでいえば、当時は暴力的な「革命」が注目を浴びたわけだけれど、それはそれで色んな人に影響を与えたはず。日本の大学の運営方法(ガバナンス構造?)は変わらなかったけど。今は、コロナ禍で学生がオンライン授業に不満を持って学費返還や減額の声を上げたり、そもそも大学の授業料が高すぎるということで国に支援を求めたり、という動きがある。こういう声は上がった方がいいと思うのだけど、そもそもこういう声を集める場所や役割が大学にそもそもあったらいいのでは、とも思う。変な言い方をすれば「健全な学生自治会」である。

でも、学生運動を興味深く見ていた身としては、それは本当に学生のエネルギーを受け止める場としてふさわしいのかなとも思う。学内にそういうシステムが組み込まれていると、そこでの運用の問題が起こるし、そこでは受け止めきれない要望があった時に、システムがすでにあるのだからその範囲でやれ、ということにもなってしまう。

西欧諸国には、学生理事がいたり、学生団体が積極的に活動しているのだけれど、そういう場もだんだんと小規模化しているという声も聞く。学費の構造やその後の就職活動の違いもあるので、単純な比較はできない。

 

日本は高学費低支援なので、大学公認のシステムとしての学生団体は、もしかしたら消費者団体という性格を帯びるのかもしれない。学生の就職に役立つ教育をしろという要望があること自体は、すでに1980年代頃の文献にはショッキングなこととして書かれている。ただ、私はそうした学生団体が、学生の青年期としての発達を促し、民主主義社会の担い手として育つための場になってほしいなぁ、という考えを持っているらしい。過去の学生運動家達がすぐれた民主主義社会の実践家になっているかどうかは知らない。そうなっていなかったとしても、それは過去の運動が何かしら「間違っていた」からだということもできてしまう。

いずれにしても分からないことの多い問題だ。「民主主義社会の担い手」に必要な力量というものが良く分からないのだ。それが分からなければ、どんな力量を育てればいいのかもわからないし、そもそも世界や時代が民主主義を求めているのかもよくわからない。わからないが、民主主義を手放してしまってもまずいだろいうという気もするのである。

 

高校までの教育システムの中で、政治教育が十分になされず、自分たちの意見を明確かつ適切にまとめ、アウトプットする経験を必ずしも持たない子どもが多い中、高校生の半数(つまりその世代の子どもの半数とほぼ同じ)が進学する大学において、そうした経験を積むことは、結構大事なことだと思うのだけど。それに、そうした学習と経験のない子どもにとって、それが重要だという認識をすることは難しいよなぁ。

まだまだ分からないことが多い。